それは、仕方のないことだった。
私には越えることのできないものが、そこには確かにあったのだ。
その笑顔が自分にだけ向けられたものではないということも、十分に理解していた。
その、はずだった。
なのに。
とても楽しそうだった。
幸せそうだった。
オーストリアさんの、あのふわりと花が咲くような美しい笑顔が向けられているのは、彼女ただ一人だけだった。
そして、彼女を見つめるその瞳には愛しさが滲んでいた。
それを見た時、あの笑顔が彼女のためだけに存在しているのだと知ってしまった。
彼女がいるから、あの人はあんな風に綺麗に笑える。
声を掛けることなんてできなかった。
どうして、あの二人を裂くことなんてできるだろうか。
一度溢れ出してしまった感情は止むことを知らず、私に残ったかすかな理性でさえ押し流してしまうようだった。
それはとても恐ろしいことだった。
この曖昧で、けれどもささやかな幸福を感じられる唯一の居場所を自分の手で壊してしまうことほど恐ろしいものはなかった。
私は、あの人が大切なのと同じくらい彼女のこともまた大切であったのだ。
気付くと、私は土砂降りの外へと駆け出していた。
雨は、嫌いではない。
むしろ好きな方だ。
先程から一向に止む気配のない雨は、私の体からじわじわと温度を奪っていく。
こうして、雨に打たれていたら綺麗になれるだろうか。
どろどろとした醜い感情が未だに内にくすぶっている、私でも。
随分と前から考えるということを止めてしまった私の頭は、けれど想いの外冷静であった。
辺りは大分暗くなっている。
ここは人通りも少ないので、若い女が傘も差さずに歩いていても誰が気に留めるだろう。
とりあえず今日はドイツの家にでも泊めさせてもらおう。
そう思い彼の家の方へ歩を進めようとした瞬間、背後から強い力で肩を掴まれた。
「!」
「・・・オーストリア、さん」
「そんな恰好で何をしているのです!」
このお馬鹿さんが。
お決まりの文句を並べる彼はいつも通りぽこぽこと怒っている。
さあ、帰りますよ。
そう言って彼は私の手を引き、どこか見覚えのある深緑色の傘に私を入れる。
あぁ、そうか。
この傘は彼女の。
そう思った瞬間、何かが私の中で弾けた気がした。
自分の体が濡れていることも気に留めず、ぐっと自分の体をオーストリアさんに押し付けた。
オーストリアさんが息を呑むのが分かったけれど、彼は何も言わなかった。
ただ、その大きな手でやや遠慮がちに頭を抱いてくれた。
そうして冷え切った体が温かく包まれ、段々と自分が溶けていってしまう気がした。
このまま流されてしまえばいいのに。
ぼんやりと、うまく動かない頭の片隅でそう思った。
|